『アマデウス』と桐山照史 関西系ジャニーズファンから観て

行ってきました。
アマデウス
多分最初で最後。10/16(月)昼夜公演。
ジャニーズWEST桐山照史モーツァルトをやると聞きチケットを取った。
以前映画のストーリーは聞きかじって面白そうだと思っていた。だが彼が出演していなければ見てないだろうな〜。と思いつつ、行った。

あ、その前夜に情熱大陸幸四郎さん回。アマデウスの稽古から初日に密着。おおー!タイムリー過ぎる!と、見たら…舞台風景結構映ってたw
演出も幸四郎さんがやってるのか。自分の役は別の役者さんに演ってもらって。会場でパンフ買ったら代役としてちゃんと名前が載ってた。
これ見てふっと浮かんだのがSHOCKで主演と演出演ってる光一氏。彼はソロコンサートの時には自分抜きでリハをする。自分は客席から照明や音響や構成のチェックをしている。
へ〜となんとなく相通じるものを感じた。

あともう一つ。
アマデウス』のモーツァルト役は、江守徹市川染五郎武田真治桐山照史と四代いる。
その市川染五郎幸四郎さんの息子なんだが、光一氏と陰陽師安倍晴明で共演している。光一氏も舞台ずっとやってるんだけど、染五郎さんはテレビドラマで全然声を張りもせず細かなニュアンスまでも台詞に滲ませていた。これは凄いなと思った。さすが歌舞伎役者と言えばいいのか?なんかよく分からないが凄い(笑)

あ、モーツァルト役歴代見てびっくりした。特に初代。江守徹がやってたのか!そんな役を照史がするの?…どうなるんだw

さて、入場。
昼公演は1階13列センター。夜公演は2階5列右サイド。
近いのは1階だが、センター過ぎて前の人の頭が被るw昼公演は双眼鏡無しで見ていた。
でも視力悪いから表情までは見えない。台詞で感情は伝わるけど。
2幕途中の公園かどこかでモーツァルト夫妻とサリエリがすれ違うシーンではっとする。
え…照史格好いい。
なんで?帽子?服装?ちょっと驚いてその後は結構ちょくちょく照史を双眼鏡で見る。照史の最後の登場シーンまで、ほぼほぼずっと双眼鏡で見てた。

夜公演は、ほぼ双眼鏡。昼公演で流れは分かったから結構気楽に双眼鏡で見てた。
でもって分かったこと。
昼公演では台詞が聞き取れなかったり意味が把握できなかった部分が特に最初の部分に多かったが、双眼鏡で顔をちゃんと見ながら台詞を聞くと、存外よく分かると思った。ま、2回目だからだったのかもだが。
照史、2幕では相変わらず途中からめっちゃイケメン。
後半はやつれた雰囲気を出していたが、目の下のクマの化粧も相まってなにやらめっちゃ壮絶。
目の表情が鬼気迫る。

そういや…楽屋に共演決まって挨拶に行った照史を見て、目が狂気を孕んでるみたいなニュアンスのことを幸四郎さんが照史に。
多分それ褒め言葉。だからモーツァルトを演れる…みたいな。
2幕後半の照史の目を見て、それ思い出す。

昼公演見て、ラストのサリエリの言葉含めなんかイマイチよく分からない。意味が、かな?
神という言葉が出てくる。多分それは宗教的なものから来る分からなさなのかなと思った。
キリスト教の神に対する概念というか、そういうものが根底にない日本人にはイミフな感じなのかな?と思った。
で、昼公演終演後パンフ読んでて。同じような困惑を幸四郎さん初演当初感じていたらしい。解決策としては神を善なる行為と置き換えて。

この舞台元々がイギリスの舞台。それをアメリカで映画化。日本での上演ではイギリスでの上演で演出助手だった向こうの人が演出やってた。そして途中から幸四郎さんが演出を。
舞台も映画も見てないから分からないが多分モーツァルトのキャラクターってこういう感じなんだろうね。ちょっとイラッとくる笑い声w下ネタというよりはウンコオシッコネタ多い。幼児性が強いのか?と思った。

ツイッターやブログを観劇前にちょこっと覗いた。ファンの書くものだから照史をベタ褒め多い。そりゃ褒められると嬉しいが、実際演劇ファンからすれば桐山照史モーツァルトはどんな評価なんだろう?
あれだけ松本幸四郎御大が手取り足取り演出付けているんだから、ある程度のクオリティはあるはず。だが、江守モーツァルトはともかく、染五郎モーツァルトや武田モーツァルトと比べてどうなのか。彼ら2人は24才ぐらいに演じている。そこ非常に興味ある。どなたか観た方いたら教えて下さい。


まず全体の感想。
以下ネタバレ気にせず書いてるから、差し障りのある方すみません。
上にも書いたが、ラストの台詞が理解できなかった。はい、すんませんwアホですw

冒頭で観客を”未来からの亡霊”だっけか?そういう形に表現して舞台の一部として招き入れる。
そしてそこからは、これからの行為への伏線を張り巡らす。
最後にはサリエリが全てを収束する。
曰く、絶望を抱えた未来の人(観客)の守護霊となるのでそういう時にはサリエリと呼んでくれ!”
神との戦い若しくは善なる行為に破れた男サリエリ。その破れた存在であるが故に、絶望している人々を救える存在であると説いているのか?
……うーん……分からん(笑)。
すまん。私それぐらいの理解力しかないw
見る人に何かを与えられる結末にしたらしいんだが。

外で私を待っていたうちの姉妹が、劇場から出てくる結構チャラいヲタっぽいおネエさん達が、かるーく、
「人生考えさせられるわー」
と結構大きい声で感想言いながら出ていってたと教えてくれた。
そうか、そうなのか(笑)

この脚本で脚本家は何を伝えたかったのか?
音楽に魅せられた純真な少年が、自分の凡庸さ故に嫉妬に苦しみ人として破綻する様か?
凡庸さに苦しむ人。
そこにキリスト教的神の存在が介在してくる。
西欧は契約社会だから、商人で即物的サリエリの両親は信仰の見返りとして繁昌を願う。
少年サリエリは善なる行為と引き換えに音楽的才能を願う。
神はサリエリに社会的地位を与えるが音楽的才能は与えなかった。そして善なる行為に背信したサリエリに与えた罰は、音楽家として社会的地位を極めつつも己が凡庸であることを噛み締めなければならなかった30年間…らしい。
そんなのいっそ全て放躑すれば楽だったのにね。善なる行為への思いも音楽への天賦の才能も。凡庸ってのはそういうことじゃね?
サリエリサリエリなりの才能があったからこそそこに囚われ、自分の凡庸さを嘆く。
結局は囚われ続けた人間の哀れさを描いた作品なのかな?
で?
嘆くな、そんな時にはこのサリエリを思い出せ。人にはその様な事が誰にもあるーーーか?
うーん。まぁいいや。よくわかんね。


実際は嫉妬とは縁遠いであろう松本幸四郎が、その様なサリエリを演じているのが見物と逝ったのは武田真治
松本幸四郎自身は、演劇と音楽とジャンルは違えどもその様な経験はいくらでもあると言っている。
桐山照史は、サリエリ程の思いはないが、下から駆け抜けて行く者に、心臓を掴まれるような苦しさは感じたことはあると。でもそこで何故か自分を信じることはできていたと。
本当にそうだったのかもしれないし、ジャニーズWESTという仲間を得てデビューできたから、そう感じるのかもしれない。



彼の内面は非常にナイーブだ。
きっとそれが瞳に出ているのだろう。
オーディションで喜多川ヒロムを睨み付けていたにも係わらず”瞳がピュアだった”と評された。
楽屋に初対面で挨拶に言った照史の瞳に”闇と狂気がある”と言った松本幸四郎ーーーそれ言ったら重岡大毅も同類っぽいけどw
桐山照史のそのピュアさやナイーブさがあったからこその、桐山モーツァルトなんだろうな。

馬鹿馬鹿しい幼児性。
才能故の、才能の無駄遣い
非社会的な振る舞い。
大人になりきれない依存性。
なのにそれを補って余りある才能。
ーーーの筈だったのに、サリエリの嫉妬によって滅ぶ。

最後に口ずさんだ幼い頃のままの歌は、本当に綺麗だった。

あれは桐山照史だからこそ、だと思った。
稚さ。
ピュアさ。
哀れさ。
あの桐山照史の歌声、表現力があってこそだろう。

あそこは結構ごつい彼の体がまるで幼児のように軽々と見えたと言っていたファンがいたが…いや、やっぱごついし重そうだよ(笑)それでもその肉体から乖離したような稚い喋りや清らかな歌声は…やはり哀れだ。

て、観てない人々にはなんのこっちゃだなw
サリエリに陥れられたモーツァルトは貧民窟で暖房の薪の金もなく、妻子にも去られ、亡父の亡霊に苦しめながら、独り依頼されたレクイエム(葬送曲)を書く。己への。
自分への社会からの仕打ちはサリエリの差し金なんだろうと思っていたが、そうではないところっとサリエリに騙され信じていたモーツァルト
ところが、病みに冒されせん妄に侵されぎりぎりの所で踏み留まっていたモーツァルトに、実は嫉妬故にこの10年間サリエリがやはり害を為していたことが、サリエリ自身によって暴露される。
亡父の亡霊への恐怖に怯えきっていたモーツァルトに、亡父の亡霊の扮装で現れたサリエリ。そして暴かれる事実。

その現実に、モーツァルトは稚い少年時代に還ってしまう。
無条件に父を頼り、何処へ行っても天才少年と讃えられ歓迎されてスポットライトの中にいたあの幸せな日々。
サリエリを父と見紛い、稚い頃に還ったモーツァルトは歌いながら父に抱擁をせがむ。
そんなモーツァルトを抱きしめるサリエリ

ここ他の役者さんはどんな風に演じたんだろう。
染五郎さんとは実の父子だしな。そういうとこがファンからは見所だったのかも。
江守さんとは同年輩だったからまた違っていたんだろう。
写真を見ると染五郎は結構正統派っぽい格好だった。真面目そう。
武田真治はエキセントリックっぽいよな〜。

で。桐山モーツァルトはどうなんだとうと思った訳だ。


ストーリーに関して。
元々がこれは舞台の脚本。
それをアメリカで判りやすくエンターテイメントの映画に仕立てている。
映画の方が表現が判りやすい。
例えば。
モーツァルトは、サリエリを自分に害する人間だと思っていた。その彼が病の床についたモーツァルトの作曲活動を手伝ってくれる。もう譜面を書き留めることはできないが溢れ出る音楽。それを書き留めるサリエリサリエリにしてみればモーツァルトの圧倒的才能に惹き付けられて譜面起こしを手伝っただけなのだが、モーツァルトサリエリが自分を助けてくれたのだと思い感謝する。 
『君は良い人だ』
そして息絶える。罪悪感に身悶えるサリエリ
ーーーみたいな感じらしい。
そっちが判りやすくてエンターテイメントらしく面白い。
演劇評論家が、”舞台はそこまで判りやすくはしていない”と。エンターテイメントではないのか?文学、芸術だからか?
みたいなことを感じた。そりゃ余白はいるけどさ。
まぁだからこそ、こんな一文書いてるんだけどさw



最後に。
この舞台見ながら、来る前に見てた『中間んち物語』という吉本新喜劇風のジャニーズWESTのコント思い出していた。その中でちょっとボケも入ったクセのあるおじいちゃんを相当濃く演じてた。
ジャニーズWESTって関西ということから、結構コミック的要素のあることをする。このコントだったり、MVのコウセイだったり。
そしてジャニーズWESTは役者としての仕事をするメンバーも多い。例えば重岡はクソ真面目な融通の利かない商人の息子を時代劇で演じたかと思えば、バンド内で恋愛や人間関係で苦悩する青年であったり、ピュアな田舎の中高生を演じてたりする。
しかし別にコントと振り幅大きくても、そこまで違和感はない。藤井流星しかり。小瀧望しかり。
しかし今回このモーツァルトを観て。
モーツァルトを演じている桐山照史を観て。
それまでの諸々の桐山照史の演じた役や、素っぽい桐山照史と違和感を感じた。違和感というか、重ならなさ。
これが映像と生の舞台の差なのかな。
圧倒的迫力を持ってモーツァルトがそこに生きて、そして死んでいる。
あのコントのおじいちゃんと、このやつれて鬼気迫る、そして稚い歌声のモーツァルトが同じ桐山照史とは。輪郭が重ならない。
そういう点では、あっぱれなんだろうな。

あ、カーテンコールの桐山照史は、まだちゃんとモーツァルトでした。
ひらひらと掌を翻して優美に一礼をする中世の宮廷人でした。
幸四郎さんを気遣いつつカーテンの中に下がるところは桐山照史だったけど。





蛇足。
昼公演見学が関西ジャニーズJrの林真鳥
たまたま終演後通りかかる。エレベーターを待つ間目立つからスタッフさんにエレベーター前でしゃがんでてと言われ素直にしゃがむ。でも自分の様子鑑みて、
「これかえって怪しくない?」
と言っててかわゆかったw